山代温泉・温泉街山代温泉(石川県加賀市)は神亀2年に名僧行基が白山に修行しに当地まで来た際、1羽の烏が湯浴びをし傷を癒す姿を見つけたそうです。行基は早速、山代温泉の守護として薬王院温泉寺を開くと、寺運が隆盛し白山五院の1つとして多くの修行僧が集まりました。その後、衰退しましたが、花山法王が山代温泉と薬王院を再興し、勅願により明覚上人が派遣されそれらの開発に尽力しています。戦国時代の、永禄8年には明智光秀も10日間湯治し、前田利家も利用したそうです。江戸時代に入ると大聖寺藩の領地となり初代藩主前田利治は山代温泉に藩主専用の湯壺を設け、湯番頭として荒屋源右衛門を任命するなど保護、開発を行なっています。湯壺には源泉から直接、温泉を引いて集められ、そこから各湯宿に分配するといった工法が取られた為、総湯を取り囲むような山代温泉独特の温泉街が形成されました。又、山代温泉は文人墨客からも愛され、与謝野晶子は「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは たとえて言えば 古九谷の青」の歌を残し、北大路魯山人は山代温泉に半年間滞在し数多くの作品を残しています。
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白山は古代からの霊山として広く民衆から信仰の対象となっていた山で、養老元年(717)に修験僧である泰澄大師が白山を踏破し白山信仰を開山すると神仏習合の一大山岳信仰の拠点として隆盛を極めました。白山の西側に位置する加賀国でも信仰が盛んなり、その拠点の1つになったのが白山五院と呼ばれる格式の高い寺院で、柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野坂寺・大聖寺で構成されていました。白山信仰の衰えと共に衰微し大聖寺は天文年間(1532〜1555年)の兵火により荒廃し、慈光院として再興されるも明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され現在は神明宮となっています。極楽寺は比較的早くに廃寺になったとされ、地名の極楽林が境内を構えた場所として推定されています。小野坂寺も比較的早く廃寺になったとされ、その後、高尾寺として再興され神仏分離令により仏教色が廃され鎮守社だったと思われる白山神社だけが残されてます。柏野寺は永禄10年(1567)の兵火で焼失し、そのまま衰微して廃寺になったと推定され、鎮守社だったと思われる柏野社だけが残されましたが、神仏分離令の際に引き継いだ古文書などが廃棄され現在は菅原神社となっています。温泉寺は客観的な資料が無く詳細は不詳。現在山代温泉に境内を構える薬王院温泉寺が白山五院の温泉寺の後継を自称しています。
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