真田道: 中之条町 |
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中之条町特に江戸時代中期以降は草津温泉(日本三名泉)をはじめ、沢渡温泉や四万温泉に湯治で訪れる人が急増し多くの往来があり中之条町も宿泊や休息などで利用されました(沢渡温泉と四万温泉は肌に優しい泉質だった事から「草津温泉の直しの湯」、「草津温泉の仕上げの湯」、「草津温泉の上がり湯」などと呼ばれました)。 現在でも町田家住宅(江戸時代末期建築、国登録有形文化財)や白井屋(明治25年:1892年建築、国登録有形文化財)など良好な町屋(町家)建築が点在しています。
中之条町の真田家縁の史跡嵩山城: 嵩山城の築城年は不詳ですが室町時代中期に白井長尾氏の居城である白井城(群馬県渋川市)の支城として築かれたと推定されています。その後、斉藤氏が台頭すると居城である岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)の支城、出城として機能しました。 永禄6年(1563)、武田信玄の上州侵攻の任を与えられた重臣真田幸隆は吾妻郡に兵を進め岩櫃城を攻略、城主斉藤憲広、憲宗父子は春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信を頼り越後に逃亡、しかし、憲広の子供である城虎丸は嵩山城に籠城し、幸隆と対峙します。 嵩山城は要害堅固の山城で憲宗も越後から増援に来るなど戦力も整っていた事から攻めきれずにいましたが永禄8年(1565)、幸隆は斉藤方の池田佐渡守父子の裏切りを誘った事で均衡が大きく傾きようやく落城に至りました。 伝承によると、岩櫃城を攻めていた憲宗は自刃し、城虎丸は山頂(大天狗の岩)から飛び降り命を絶ち、一族の女性や子供も後を追ったと伝えられています。元禄15年(1702)、嵩山城で犠牲になった霊を慰める為、本丸跡には坂東(三十三観音)、その後、西国(三十三官温)、秩父(三十四観音)合わせて百番観音が安置されました。嵩山城の跡地は昭和63年(1988)に中之条町指定史跡に指定されています。 林昌寺: 宝満山林昌寺は平安時代に長馨和尚によって天台宗の寺院として開山されました(現在は曹洞宗)。その後荒廃しましたが、戦国時代に当地域まで進出した真田幸隆の弟である矢沢頼綱により再興されます。真田家は江戸時代初期まで当地を含む沼田地域を支配した事で、縁のある林昌寺を庇護し、寺運も隆盛しました。 寺紋の六連銭は真田昌幸が許したと伝えられ現在でも本堂の屋根には真田家の家紋が掲げられています。山門は元文年間(1736〜1740)に建てられたもので、中之条町の中では数少ない楼門建築の遺構として貴重な存在です。桜の名所としても知られるシダレザクラと、文永8年(1271)に建立され板碑(阿弥陀如来立像が刻されています)が中之条町の文化財に指定されています。関東九十一薬師霊場第45番札所。関東百八地蔵尊霊場。 桃瀬の水牢: 全国的に珍しい水牢の跡で、戦国時代に当地を支配した斉藤氏によって設けられたとされます。水牢とは年貢が払えなかった農民などが入れられる牢屋の一種で、人が立てる位の穴を掘り、底の安定感の無い丸い石などを置き、罪人を底に立たせて水を張り上から吊り下げる形式を取っていたとされます。牢屋というよりも拷問に近い施設とされます。伝承では真田家もこの施設を利用したと伝えられています。桃瀬の水牢は中之条町指定史跡に指定されています。 城峰城: 城峰城の築城年は不詳ですが嵩山城の支城として機能しました。永禄8年(1565)に嵩山城が落城すると重要性が失われ廃城、天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が倒れると、関東方面を任されていた織田家の家臣滝川一益が自領を引き上げた為、再び当地は真田家が支配する事になり、真田家に従った草津温泉の湯守で草津地方の領主である湯本三郎右衛門が堪忍分として賜ったとされます。真田8城に数えられ、跡地は中之条町指定史跡に指定されています。 四万温泉−四万温泉は古くからの名湯として知られていますが、真田昌幸が領主の時代に改めて整備開発され、田村彦左衛門を湯守に任ずると四万温泉では始めて湯宿を設けました。その後も田村家は代々湯守として開発を続け現在でも温泉宿として存続しています。四万温泉の信仰の中心的存在である日向見薬師堂は慶長3年(1598)に真田信幸が武運長久を祈願する為に再建されたもので、寄棟、茅葺、桁行3間、梁間3間、唐様和様の折衷形式で意匠的にも優れている事から、堂内に安置されている厨子(天文6年:1537年建築)と共に国指定重要文化財に指定されています。
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