瀬見温泉・温泉街

瀬見温泉(最上町)の歴史は古く、鎌倉幕府成立後の文治3年(1187)、兄である源頼朝に謀反を企て追討された、源義経が奥州藤原氏に庇護になる為、平泉(現在の岩手県平泉町)に向う途中、亀割峠で室である北の方が産気付き、武蔵坊弁慶が産湯を求めて発見したのが始まりとされます。弁慶は小国川から湯煙が上がる大岩に薙刀で一刀両断すると、底から滾々と源泉が湧き出し、この温泉を産湯に使い無事出産、義経一行も数日間湯治を行なうと長旅の疲れも癒え、平泉に向ったと伝えられています。瀬見温泉の名称の由来は弁慶が使った薙刀の名は「せみ丸」だったからとされ、温泉街には弁慶が見つけたという「薬研湯」や「弁慶の硯石」、「弁慶の投げ松」など義経・弁慶伝説の史跡が数多く点在しています。江戸時代に入ると「新庄の奥座敷」と呼ばれ、新庄藩(山形県新庄市:本城−新庄城)の藩主戸沢家も利用したそうです。瀬見温泉は温泉街らしい町並みが残されており、特に喜至楼は本館が明治時代初期、別館が大正時代に建てられたもので山形県最古の旅館建築として異彩を放っています。
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瀬見温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
瀬見温泉は源義経や武蔵坊弁慶の縁の温泉として知られ温泉街にもその史跡が点在し興味深いものがあります。歴史と町づくりの指標として歴史を深く掘り下げる町づくりと、掘り下げない町づくりとがあり、例えば、小野小町の生誕地や死没地は全国に数十箇所存在し、それぞれの市町村で小町を題材にして町づくりを行っています。当然歴史を深く掘り下げると、生誕地も死没地も1箇所づつという事になり、本物以外には不都合という結果となります。その為、事実を掘り下げず、現在伝わっている伝承や伝説のみをある意味利用しています。結果的に町づくりが行われ、活性化すれば良いという一面もありますし、事実が見えて来ないという一面もあります。現在はどうなっているか分かりませんが、以前、青森県にキリストの墓(十来塚)とピラミットがある村があり、記憶が正しければ、観光案内版にも表示していたと思われます。これも、観光や町づくりの一環と思われますが一般的には偽書とされる「竹内文書」や新宗教団体の教祖竹内巨麿らの指摘により示されたもので、興味がある人が訪ねるには良い事とは思いますが市町村のお勧め観光地かどうかは疑問が残る問題のように感じます。長野県小布施町も町づくりの成功例として多くの観光客が訪れています。小布施町の大きな観光地のテーマに葛飾北斎の最後の大作が岩松院の本堂の天井画で描かれている事が挙げられます。実際に見て見ると本当に素晴しいという印象を受けますが、一部には葛飾北斎の作かどうか疑問視する人もいます。学術的な観点や歴史的な観点からすると多くの専門家から調査して事実を知る事が必要とも思えますが、これが葛飾北斎の作でないとすると町づくりに支障があるかも知れません。結果的に町からすると事実を知らない方が得策なのかも知れません。瀬見温泉では源義経や武蔵坊弁慶と関係が深い温泉として観光地図やパンフレットにも紹介さ、多くは「義経記」に記載されているものと地元に伝わる伝承とで構成されています。歴史を多少知っていると、「義経記」が室町時代に製作され、義経が鎌倉幕府成立前後に死去している事から、義経記は義経の死後150年以上経ってから記載され、歴史書や資料ではなく軍記物として書かれ物語性が強い読み物だという事がわかります。確かに作者が丹念に事実を調べ上げている可能性もゼロではありませんが、極めて低いと言えますが、ここで、面白いのは義経記で記載されている土地土地に予想以上に義経の伝説が真実のように伝えられている事で、義経記を誇張して製作された歌舞伎の勧進帳の舞台となった安宅の関(石川県小松市)でも事実のように語られ、そこも観光地となっています。
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