赤湯温泉・温泉街
赤湯温泉(南陽市)の歴史は古く平安時代末期に、源義家の弟で陸奥守として当地を訪れた源義綱が偶然見つけ負傷した兵士の傷を癒したと伝えられています。赤湯温泉の伝説の真偽は判りませんが、寛治7年(1093)に出羽守(現在の秋田県と山形県の長官)源信明が平師妙と子の平師季に襲撃され殺害される乱が発生し、陸奥守の源義綱は家臣に命じてこの乱を鎮圧したとの記録が残されている事から、この伝説が発生したと思われます(記録上は義綱はあくまで家臣を派兵させただけで出羽国には赴いてはいません)。もう1つの赤湯温泉の開湯伝説は鎌倉時代末期に、弘法大師空海の御告げにより米与惣右衛門が発見したとも云われています。こちらの伝説の方か信憑性が低く、赤湯温泉の温泉街の一角には米与惣右衛門が開いたと伝わる以前の永仁2年(1294)の銘が刻まれている磨崖板碑が建立されている事から、鎌倉時代には既にある程度の開発が進んでいたとも考えられます。弘法大師空海が山形県に来訪したという客観的な第一級の資料は現在まで見つかっていないようですが、出羽三山の湯殿山など弘法大師空海が開いたと伝わる寺院も多く、空海縁とされる「弘法清水」や「大師の井戸」なども見られます。これは日本全国で見られる事で、空海を信仰した宗教集団が布教の際に流布したものと考えられています。
赤湯温泉は江戸時代に入ると米沢藩(山形県米沢市:本城−米沢城)の藩主である上杉家の御殿湯が設置され、藩が公認した遊興場として整備され、寛永11年には2代藩主上杉定勝、承応2年と明暦3年、万治2年には3代藩主上杉綱勝、万治元年には山形藩主である松平忠弘が湯治に訪れ、特に9代藩主上杉鷹山は温泉街の開発を行い合計で23度の赤湯温泉を訪れ画家に命じて温泉街の名所8ヵ所を赤湯八景(丹泉八勝)として描かせています。又、上山城(山形県上山市)の城下町と米沢城(山形県米沢市)の城下町を結ぶ米沢街道の街道沿いにあることから湯治客だけでなく街道を利用する旅人や商人、出羽三山詣での参拝者が数多く湯治を楽しみました。赤湯温泉の名称の由来は義綱の家臣が温泉に入った際、傷から大量の血が流れ出し赤く染まったからとも、温泉街にある東正寺の仏を供養する為に捧げられる閼伽(あか)から取ったとも云われています。 温泉街は米沢街道の宿場町的な存在だった為、旧街道沿いは落ち着いた町並みが続いています。
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