上山温泉・温泉街

上山温泉の歴史は古く室町時代中期に月秀和尚(肥前国杵嶋郡出身の僧侶)が全国を巡錫している途中に当地を訪れた際、傷を負った1羽の鶴が湯浴びをし、傷を癒している姿を見て源泉があるのを悟ったのが始まりとされ、当初は「鶴脛の湯」と呼ばれていました。江戸時代に入ると上山藩が支配下となり藩庁が置かれた上山城の城内など改めて3箇所の共同浴場を設け、さらに宿谷にも温泉を引入れるなど、多くの人達に解放した事で城下町兼温泉街は大変賑いました。特に城下町(温泉街)には出羽の主要街道である羽州街道が通過していた事で、湯治客はだけでなく旅人や物資を運ぶ商人など様々な人達が利用しました。羽州街道は奥州街道の宿場町である桑折宿から分岐して出羽国を縦断し、再び奥州街道の宿場町である油川宿に合流する、奥州街道の脇街道でしたが、出羽国と津軽地方の13藩の大名が参勤交代で利用した為、五街道に次ぐ格式とされ多くの往来がありました。特に上山城の城下町は米沢城(山形県米沢市)の城下町とを結ぶ米沢街道との分岐点でもあり交通の要衝だった事から多くの人が利用した為、温泉街は享楽的な要素が加わり大変賑やかな町となり、上山温泉は東山温泉湯野浜温泉と共に奥羽三楽郷の1つとして数えられました。又、上山城に配流された沢庵和尚も上山温泉に入湯した事が文書に記載されています。上山城の周辺は大規模な近代化が図られなった為、周囲には複数の武家屋敷が現存している他、温泉街らしい町並みの雰囲気も残され、特に上山温泉下大湯共同浴場は昭和初期の建物で味わいが感じられます。

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上山温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
上山温泉縁お人物の中に沢庵和尚という人物がいます。よく宮本武蔵関係の小説やドラマ、映画、漫画などで出てくる僧侶で沢庵(たくあん)漬けを考案した人物とも云われている。武蔵との関係について吉川英治の小説「宮本武蔵」で濃密に描かれている為に、それが本当の事実のように定着し、影響を受けた作品の中に2人が師弟関係として登場させた事からさらに定着したと思われます。実際は確かに同時代に生きた人物で、沢庵の生地である但馬の出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)と武蔵の出生地とされる美作国(現在の岡山県美作市大原町)又は播磨国(現在の兵庫県高砂市米田町又は揖保郡太子町宮本)が比較的に近い事から、もしかしたら出会った事があったかも知れないという程度で、実際に記録や古文書に2人の関係が記載されているわけではありません。その沢庵和尚が何故、上山と関係があるのかというと、沢庵和尚は江戸時代初期の臨済宗の高僧で済宗大徳寺派大本山である大徳寺(都府京都市北区紫野大徳寺町)の住職をしていた際、後水尾天皇から僧侶としては最高位を表す紫衣着用の勅許を得たのですが、それが江戸幕府が発令した「禁中並公家諸法度」に違反しているとして無効となってしまいます。江戸時代以前は紫衣着用の勅許は天皇の権限として通例になっていた事から沢庵和尚は幕府に対して、反対運動を起こし様々な高僧達から支持集め、意見書としてまとめ提出しました。幕府はこの行為を反逆罪として捉え上山城に流罪となり、遠く出羽国の上山に流されたという訳です。しかし、当時の上山城の城主土岐頼行は沢庵和尚に帰依した事から流罪というより、客品として厚遇し、居宅となる「春雨庵」を設けて不自由のない生活を送ったそうです。その際、現在でも共同温泉として知られる下湯温泉に入湯した事が記録に残っているそうです。

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