塩原温泉・温泉街塩原温泉(那須塩原市)の歴史は古く大同元年に如葛仙という人が見つけたのが始まりと伝えられています。承和9年には弘法大師空海の入湯も伝えられ、塩原温泉にある天狗岩には弘法大師と天狗にまつわる伝説も残っています。古くからの史跡も多く大同2年に勧請したと伝わる塩原八幡神社には康平元年には源頼義、義家父子が前九年合戦の折この地を訪れたとされ、源三窟では源義経の家臣源有綱が逃げ隠れた場所と伝わっています。門前では平重盛の妹と伝わる妙雲禅尼がこの地に逃れ妙雲寺を開山しています。江戸時代には会津に抜ける街道沿いの温泉宿として発展し、元湯千軒と呼ばれるほど多くの温泉宿が軒を連ねていましたが、万治2年の大地震で大きな被害にあってい、戊辰戦争では塩原温泉街も戦場となり149戸の民家が会津軍によって焼き討ちにあっています。明治17年に当時の県知事である三島通庸の指示による塩原街道が開通すると、飛躍的に知名度が上がり夏目漱石、谷崎潤一郎、斉藤茂吉、尾崎紅葉などの文豪達もこぞって塩原温泉へ訪れています。大正7年に田山花袋が出版した"温泉めぐり"において、塩原十一湯を温泉郷と取りあげると全国から湯治客が訪れるようになります。
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塩原温泉には豊臣秀吉が入湯したとの伝承が残っています。何故?と思われる方も多いと思われますが、天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、豊臣軍は奥州諸大名の処遇を決める所謂「奥州仕置き」を行う為に、そのまま北上し宇都宮城(栃木県宇都宮市)や白河城(福島県白河市)、長沼城(福島県須賀川市長沼)を経由して伊達政宗の本拠があった会津黒川(福島県会津若松市)に入ります。ここで、最終的な奥州仕置きが下され、秀吉は後に会津西街道と呼ばれる街道を南下して宇都宮城に戻る際に塩原温泉に立ち寄り入湯したとされ、天下統一を終えた秀吉はまさに天にも昇る気持ちで塩原温泉を楽しんだのかも知れません。又、慶長16年(1611)、秀吉の重臣中の重臣で五奉行の筆頭を勤めた浅野長政が塩原温泉で湯治中に死去しています。長政は関ヶ原の戦いの際には豊臣家を見限り徳川家に傾倒し東軍に与した事もあり多少の因果が感じられます。
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