東鳴子温泉・温泉街

東鳴子温泉(宮城県大崎市)は田中温泉、新田中温泉、赤湯温泉、新赤湯温泉の総称で、それぞれ源泉が異なる為、泉質や効能が違います。東鳴子温泉の開湯には諸説あり8世紀から10世紀まで蝦夷に対抗する為陸奥国で結成された玉作軍団が天平19年(747)に当地を訪れた時には既に存在していたと云われています。玉作軍団とは「続日本記」によると神亀5年(728)に丹取軍団から玉作軍団に改称した事が記載されている軍団の事で、玉造柵(名生館官衙遺跡)が朝廷の軍事的な拠点として多くの兵士が配され軍団を形成していたものと考えられ、兵士達が戦で受けた傷や、日頃の訓練の疲れを癒す為に訪れたたのかも知れません。もう一説は仁治元年(1240)の壇ノ浦の戦い(源平合戦の最終決戦、これにより主要な平家は滅亡し、残された平家一門も政治的な権力は失われた)で敗れた平家縁の家臣がこの地まで逃れ源泉を発見したとも云われています。宮城県内の平家落人伝説は仙台市青葉区大倉にある定義如来西方寺が有名ですが、東鳴子温泉や秋保温泉(宮城県仙台市:平基盛の家臣佐藤家が秋保温泉の湯守となった。)にも伝えられているようです。江戸時代に入ると、仙台藩主が設けた領内2箇所の御殿湯の1つが設置され、岩出山伊達家の療養地としても名を馳せました。東鳴子温泉の温泉街は主要道の両側に10軒前後の温泉宿と地元住民向けと思われる店舗が数軒で構成されて、観光地的な雰囲気はありません。温泉街の西側の外れには守護神と思われる東鳴子温泉神社、中央高台には湯殿山神社(出羽三山の奥之院の湯殿山神社の分霊を勧請したものと思われます。)が鎮座しています。
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東鳴子温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
天保11年(1840)に仙台藩12代藩主伊達斉邦が川渡温泉、文久3年(1863)に13代藩主伊達慶邦が赤湯温泉を利用しています。特に伊達慶邦はなかなか子供が授からなかった夫人と共に来訪し、見事懐妊した事から子宝の湯として知られるようになりました。因みに生まれた子供は伊達宗基として仙台藩初代知事に就任しています。
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