大鰐温泉・温泉街

大鰐温泉(青森県大鰐町)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃に日頃から大日如来を帰依し本尊として持ち歩きながら全国を巡錫していた円智上人が、当地で重い病に罹り床に伏せっていると、霊夢に大日如来の化身が立ち、源泉の場所と入浴方法を告げたそうです。

円智上人は早速、御告げ従い示された場所に行って見ると確かに霊泉が湧き出していたので、言われた通りの入浴方法を試すと何時しか病も平癒、そこで円智上人は温泉場を整備し住民達に「土用・丑の日に沐浴しなさい。」という御告げ通りの入浴方法と大日如来の教えを広めたと伝えられています。

大日如来を安置した大安国寺(境内を構えた阿闍羅山は信仰の山として往時は「阿闍羅千坊」と称される程、多くの寺院があったとされます。)は長く当地の信仰の中心として寺運も隆盛しましたが、その後荒廃し建久2年(1191)に神岡山高伯寺に移され、さらに慶安3年(1650)に弘前藩(青森県弘前市:藩庁−弘前城)の3代藩主津軽信義が現在地に移し、明治時代初頭に発令された神仏分離令により弘前城の城下町から移された大円寺(※1)が境内、仏像、仏具などを引き継いでします。

津軽信義は大鰐温泉を事の外気に入り、温泉街に御仮場を設けて度々湯治に訪れたとされ、又、羽州街道沿いにあった為、多くの旅人や商人が利用した事で、全国的にも知られるようになりました。幕府巡見使の随員である古川古松軒は蔵舘村と大鰐村には温泉が数箇所あり、蔵舘温泉は熱く、大鰐温泉は温いとし、功能が高い事から湯治する人が多いと記載しています。

江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われる菅江真澄は7つの湯船があり、藩主に献上する早稲の為の稲田(おはつ田)があった事を記載しています。幕末には吉田松陰が東北遊学した際、碇ヶ関関所を越えて入湯した温泉は大鰐温泉という説もあります。現在でも多くの共同温泉が存在しています。

※1−弘前城の城下に境内を構えていた大円寺は平安時代成立前後に征夷大将軍として津軽まで進軍した坂上田村麻呂により創建された古寺です。その後の経緯は不詳ですが、江戸時代に入り弘前城が築城されると、弘前城の南側の軍事的防衛線として新寺町が町割され、さらにその重要拠点に大円寺が遷されています。大円寺には弘前藩3代藩主津軽信義が篤く信仰した大日如来が本尊として勧請され、津軽家歴代の祈願所として庇護され続けられ庶民にも信仰を広げました。しかし、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神仏習合していた守護神である弘前八坂神社と分離され、さらに、同じく神仏分離令により弘前八幡神社から分離した最勝院が大円寺の境内に遷された為、大鰐温泉の神岡山高伯寺の境内に遷される事になっています。現在、最勝院の境内に見られる五重塔(国指定重要文化財)をはじめ多くの堂宇は大円寺時代のものが数多く残されています。

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大鰐温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
大鰐温泉は青森県出身の太宰治縁の地でもあり、小説「津軽」では青森県では浅虫温泉の次に有名で、津軽の南端、秋田県との県境に近いとし、浅虫温泉は記憶には鮮明だが良い思い出がなく、大鰐温泉は記憶が薄れたものの懐かしいとしています。数十年ぶりに訪れた太宰は浅虫温泉は東京からも便が良い為、都会の残り物のような印象を受けますが、大鰐温泉はまだ、都会の風が晒されていない津軽が残っていると評しています。それには、弘前城と碇ヶ関関所という史跡に挟まれている事が起因し、そう簡単には都会に毒される事は無いだろうと推察しています。太宰治は昭和4年(1929)12月10日、弘前高校生時代に自殺未遂を起こし、数日後、母親と共に大鰐温泉で静養と湯治の為に訪れ1月7日まで滞在しています。この間に母子の関係も深まった思い出の地が都会の汚れた雰囲気に汚されたくなかったのかも知れません。

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