浅虫温泉・温泉街

浅虫温泉(青森県青森市)は平安時代に巡錫で当地を訪れた慈覚大師(平安時代の天台宗の高僧、入唐八家)により発見したのが始まりと伝えられています。もう一説には平安時代末期に法然上人(平安時代末期から鎌倉時代初期の高僧、浄土宗の開祖)が巡錫で当地を訪れた際、傷ついた日本カモシカが、温泉に浸かり傷を癒しているのを発見したのが始まりとされます。浅虫温泉の名称の由来は、多くの源泉で麻を蒸すのに利用されていた事から麻蒸しの湯と呼ばれ、それに因み浅虫温泉と呼ばれるようになったとされます。江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われる菅江真澄も青森に滞在中に度々浅虫温泉に訪れ、名称の由来や温泉街の様子などを記録しています。幕府巡見使の随員である古川古松軒も浅虫温泉を休息で利用し、海沿いに温泉があり、湯壷から熱湯が川に流れ落ち、川から湯気が煙のように立っていたと記録しています。江戸時代に入ると、奥州街道沿いに浅虫温泉があった事から多くの人々から利用されるようになり、中でも弘前藩(青森県弘前市:藩庁−弘前城)の藩主津軽家は浅虫温泉の中に御仮屋(他藩では陣屋又は本陣に類する施設)を設置し内部には藩主専用の「御殿湯」を設け領内視察で、近くまで来た際は温泉を楽しんだと伝えられています。明治時代に入ると浅虫温泉の知名度が広がり多くの文人墨客なども訪れています。特に青森県出身の棟方志功や太宰治は縁があり、棟方志功の作品が浅虫温泉の観光ポスターとして採用された事もあります。太宰治は中学時代に母親と姉が浅虫温泉に湯治していた際に受験勉強に追われていた事があり、それらの出来事が小説「思い出」に描かれ、小説「津軽」でも浅虫温泉の場面を表現しています。
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浅虫温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
浅虫温泉の近くの海岸に裸岩という高さ20m程の大岩が立っています。一般的な海岸で見られるような黒っぽい色ではなく、肌色と若干の赤味がかった色が混じりあう特徴的な岩で次のような伝説が残されています。昔、浅虫温泉に「スエ」と呼ばれる女性が赤ちゃんを籠の中に入れて畑仕事をしていました。その時、大きな鷲が畑に舞い降り、恐ろしさの余り目を閉じると、次の瞬間、大鷲は鋭い爪で赤ちゃんが入っている籠毎握り締め持ち去ってしまいました。大鷲は裸岩の頂上の巣に赤ちゃんを持ち帰り、鷲の子供に餌として与えようとすると、「スエ」は鬼子母神の如く形相で岩を登り始めましたが、垂直にそそり立つ肌岩の頂上には中々登り切る事が出来ず、何度も何度も失敗してる内に、肌の皮は破れ血だらけとなり、全ての指の爪も剥がれて、岩自体も「スエ」の血で真っ赤に染まり、そのうち「スエ」も動かなくなりました。村人が訪れた時には既に「スエ」も息絶え、その内、岩が肌色に変わった事から何時しか「裸岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。
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