川治温泉・温泉街川治温泉(日光市)の開湯は享保8年、大雨により五十里湖の堰が決壊し周辺が大きな被害を受けました。川治周辺の男鹿川も大きく削られましたが、川岸の一角から白い湯煙が上がり温泉が湧き出ているのが見つかりました。文久3年、会津西街道のルートが高原新田宿を通る峠越えルートが冬場、豪雪による交通困難との理由から男鹿川沿いに移った為、高原新田宿が廃宿となり、住民達は川治周辺に移り住み次第に温泉町として形成していくことになります。周辺住民や会津西街道を利用する旅人などからも利用されと次第に知名度が上がり、特に傷口に良い効能があることから(古くから「傷は川治温泉、火傷は滝温泉(鬼怒川温泉)」と言われていたそうです。)幕末の戊辰戦争の際には新撰組の土方歳三が戦で受けた傷を癒し、決戦の地である鶴ヶ城(福島県会津若松市)に向ったと伝えられています。
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会津西街道(下野街道)は会津藩の藩都である会津若松(福島県会津若松市)と日光街道の今市宿(栃木県日光市)を結ぶ街道で、当時は奥州の要衝だった会津若松と江戸を最短距離で結んでいた為、会津藩をはじめ村上藩(新潟県村上市)や新発田藩(新潟県新発田市)も参勤交代の経路として利用していました。しかし、会津西街道は脇街道だった為、幕府から参勤交代は主要道を通るようにとの通達があると、白河街道と奥州街道を利用するようになりましたが、それでも物資の輸送や出羽三山の参拝道などに利用され大いに賑いました。戊辰戦争の際には新政府軍の会津領への侵入口となり各地で激戦が繰り広げられました。
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