出湯温泉・温泉街出湯温泉(五頭温泉郷)の開湯は大同4年、弘法大師が五頭山を開いた際、錫杖を地面に突いたところ霊泉が滾々と湧き出たと伝えられています。その後、天平5年に行基菩薩によって開かれた海満寺が領主である大見氏の菩提寺として庇護された事で寺運が隆盛し四院三十二坊を擁する大寺院になった為、出湯温泉も随時開発されていったと思われます。鎌倉時代には広く認識されていたようで弘安6年に編纂された「越後文書」の中の「温川条」は出湯温泉のこととされ、江戸時代中期には温泉税も納めていました。弘法大師が開いた霊泉で効能も非常に良かった事から華報寺の門前町が温泉街として賑わったとされます。出湯温泉周辺は天領だった為、明治維新後に源泉が幕府から払い下げられ特に源泉持ちの温泉宿は「七軒衆」と呼ばれました。その後、出湯温泉は発展し最盛期には14軒の温泉宿が建ち並び芸者置屋の数が新潟県内にある温泉街で2番目の多さになりました。
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出湯温泉は背後に控える五頭山を開山した奈良時代の高僧弘法大師空海によって発見されたと伝えられています。この手の伝説の真偽は不詳ですが鎌倉時代の文献には「温川条」との記述もあり、少なくとも鎌倉時代には温泉地として知られていたようです。現在の温泉街の最奥地に境内を構える華報寺も温泉開発に大きく関わり、その境内にも共同温泉が設けられ住民に開放しているというかなり珍しい温泉街と言えます。この共同温泉が上述した弘法大師空海が錫杖を地面に突きたて、そこから湧き出したと伝わる温泉で内部には弘法大師像が安置されています。この温泉が華報寺(当時は海満寺)の教えの普及に大きな役割を持ったのかは判りませんが、往時は4支院、32坊を擁する大寺院だったとされ、現在温泉街を形成している温泉宿の敷地は寺院や宿坊が建てられていた場所だったそうです。
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