恐山温泉(青森県むつ市:下北半島)

恐山温泉(青森県むつ市)は日本三大霊場として知られる恐山菩提寺の境内にあります。発見の由来等は不詳ですが、恐山は下北半島の民間信仰で、古くから死者の霊魂は成仏するまで恐山に留まると信じられており、その信仰の中心として発展しました。境内は火山活動により硫黄臭が立ち込め、草木も余り育たない荒涼として景観が広がっています。恐山温泉はそのような場所にあり、江戸時代の文献などにも度々記載され、信仰の場と同時に湯治場でもあり、参拝者や湯治客などを相手にする遊女などもいたようです。特に、江戸時代の紀行家で、民俗学の祖とも言われる菅江真澄が下北半島に滞在した際に度々、恐山を訪れ、恐山温泉にも入湯した事が挿絵などを交えて詳細に記述されており、大変貴重な資料となっています。現在、恐山は観光地化して数多くの人が見学に訪れていますが、恐山菩提寺の参道沿いに、ある意味無造作に温泉小屋が4棟建てられ、古くからの湯治場の雰囲気が残されています。
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恐山温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
恐山は何時頃から呼ばれたのは不詳ですが、元々はウソリ山と呼ばれていたのが転じて恐の山、恐山と呼ばれるようになったと推察されています。ウソリとはアイヌ語で小さな入り江や湾という意味で、恐山には火山活動によって形成されたカルデラ湖が存在し、正しく小さな入り江とも言える景観を見る事が出来ます。一方で、もう1つの説があり、慈覚大師円仁が釜臥山で修行していた際に、鵜(う)が翦るのを見た事から鵜翦山(うせんやま)という名称が生まれそれが転じて宇曾利山→恐山となったとも云われています。当然、後者は恐山菩提寺が創建後に、開山者とされる慈覚大師円仁が開いた事を民衆に説く際に流布されたものと考えられ、アイヌ語説の方が説得力があります。又、宇曾利山よりも恐山の方が仏教や地蔵信仰の死生観を現している事から当て字として転じられたと考えられます。それでは慈覚大師円仁が本当に恐山菩提寺(当初は恐山金剛寺)を開山したのでしょうか?慈覚大師円仁は、第3代天台座主、 入唐八家にも数えられる平安時代の天台宗の高僧で、下野国都賀郡壬生町(栃木県壬生町、現在の壬生寺)出身、15歳で比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)の最澄に師事し最後の遣唐使として唐に渡り長期間修行を積んでいます。東国出身であるせいか、東日本で円仁縁の寺院が集中し、伝承通りであれば貞観2年(860)に山寺立石寺(山形県山形市)、天長5年(828)に瑞巌寺(宮城県松島町、当時は延福寺)など関東地方に209寺、東北地方に331寺の寺院に関わったとされます。記録によると円仁は天長5年(828)に比叡山を下り、天長6年(829)〜天長7年(830)にかけて関東地方から東北地方を巡錫した事実がありますが、その時期に限っても東北地方には開基に中興に関わった寺院が160寺以上あります。これらを考えると各寺院の由緒を否定する訳ではありませんが、到底1人で出来る事ではありません。ましてや貞観6年(864)の正月に円仁が病死している事からも、僅か1年数ヶ月前に街道の整備をおぼつかない場所で修行をし尚且つ寺院を開山する事は中々難しいと思われます。信仰を広める為に著名人の名前を使う事は全国的に見られますが青森県は特に顕著に現れ、本当の由来等の検証は大変難しい状況となっています。
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