沢渡温泉・温泉街

沢渡温泉(群馬県中之条町)が何時頃発見されたのは不詳ですが、万葉集の中で「さわたりの」と記述されている一説があり、その「さわたり」が沢渡温泉の事とも言われています。建久2年には源頼朝が入湯したとの伝承が残っているものの、歴史的史実が存在せず本当かどうか検証する術は今のところありません。ただし、古くから知られていた事には間違いでは無く、特に江戸時代後期以降一般庶民にも行楽が広がり、数多くの湯治客が草津温泉に訪れると、帰り際に沢渡温泉に入湯し体調を整えてから帰宅するのが常とされ「草津の治し湯、仕上げ湯」として発展しました。蘭学者で蘭医だった高野長英も2度沢渡温泉を訪れ(この故事から沢渡温泉は吾妻地方の蘭学の発祥地とされています)、明治時代以降も若山牧水などの文治墨客達が利用しています。

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沢渡温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
高野長英は仙台藩の水沢要害(岩手県奥州市水沢区)の領主水沢伊達家の家臣後藤実慶の子として生まれ、高野家の養子となりました。幼少の頃から蘭学が身近な存在で、江戸に出ると吉田長淑に師事し、実績が認められ文政3年(1820)に長崎に留学し、文政8年(1825)からシーボルトの鳴滝塾に入塾しました。文政11年(1828)にシーボルト事件に巻き込まれ長崎を離れ各地に赴き蘭学書の翻訳などの仕事をするようになり、天保2年(1831)と天保7年(1836)に沢渡温泉出身の福田宗禎に招聘され当地を訪れました。福田宗禎は漢方医でしたが、西洋医学にも興味を持ち、長英を招きいれ西洋の技術の教えを請いました。その後、高野長英は幕府の政策に対して批判を繰り返した為、天保10年(1839)に蛮社の獄により捕縛され牢屋に入れられました。その後、弘化元年(1844)に火事により牢屋が焼失し、脱獄、嘉永3年(1850)に再び捕縛されるまで全国各地に身を隠し、その1つが沢渡温泉だったとされ、福田宗禎をはじめ、門人達の家にも長英を隠したとの伝承が残されています。

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