草津温泉(日本三名泉)・温泉街

草津温泉は古くからの名湯で、明治時代には日本政府の要請に応えたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ博士が医学的に草津温泉の効能を証明し広く世界に紹介しました。特に神経痛、慢性消化器病などに効能があるとして有馬温泉、松之山温泉と共に日本三大薬湯の1湯として数えられました。草津温泉が何時頃に発見されたのかは日本武尊説や行基説、源頼朝説などがありますが何れも伝説、伝承の粋を出ず不詳となっています。ただし、草津温泉背後にある白根山(標高:2160m)は度々火山活動を繰り返した事から古代自然崇拝の対象となり、やがて、山岳信仰、白根山修験の発生に繋がり、温泉地としては比較的早くから利用されていたと思われます(現在、白根神社が草津温泉の鎮守となています)。本格的に開発が進められたのが中世に入ってからで湯守である湯本氏が中心となり温泉場の整備が行われ室町時代には相国寺の僧万里集九が「梅花無尽蔵」の中で草津温泉、有馬温泉下呂温泉が日本で最も著名な温泉地、所謂、日本三名泉として紹介しています。戦国時代には草津温泉周辺の土豪や国人領主が湯治に度々訪れており、当主が湯治をしている最中に城が攻められた事が記録に残こされています(箕輪城の城主長野業尚・小幡城の城主小幡信貞・上野金山城の城主横瀬成繁など)。さらに時代が下がると、大名の保養所的な役割を持ち、織田家や豊臣家の家臣が湯治に訪れ、特に前田利家が湯治にきた際には豪華宴が行われたと伝えられています。江戸時代に入ると、幕府の儒学者林羅山も万里集九が挙げた日本三名泉をそのまま追認し、湯畑から汲み上げた源泉は「将軍おくみ上げの湯」として江戸城まで運ばれ将軍家が入湯を楽しんだと伝えられています。江戸時代後期には庶民達も行楽の機運が高まり、多くの湯治客が草津温泉を利用するようになり温泉番付である諸国温泉功能鑑でも東方大関に位置しその人気ぶりが窺えます。
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草津温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
伝説によると、木曽義仲が幼少(2歳)で駒王丸と呼ばれていた頃、父親である源義賢は義賢の兄源義朝との対立から源義平(義朝の長男)に大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)を襲撃され討死しました。家臣達は駒王丸を密かに脱出させ、草津温泉に一時身を隠し、安全を見計らい入山村に隠れ住んだそうです。その後、駒王丸が元服すると源義仲に名を改め、木曽源氏の頭領として成長、倶利加羅峠の戦いで平家に勝利すると一気に京都まで進軍し、平家を京都から追い落としました。しかし、源頼朝の画策により、朝廷からも孤立され、遂に頼朝から派遣された源範頼、義経の軍に敗れ粟津(滋賀県大津市)で討死しました。その時、義仲の愛妾と思われる1人の女性が義仲の子供を宿したまま、戦線を離脱し父親である望月御殿助に守られながら。義仲縁の草津温泉まで辿り着き、さらに奥地の細野という地で男子を産み落としました。その後、源頼朝が浅間山の山麓で巻狩りをした際、案内役で功のあった望月御殿助は草津温泉の湯守任を申し付けられ、その跡を娘の子供(義仲の子供)が継いだと伝えられています。

湯本氏は戦国時代には草津温泉の湯守だけでなく周辺地域を支配する土豪として発展し、武田家の家臣である真田家に従い度々合戦にも参加して功を挙げ領地を安堵されています。武田家が滅びると、湯本氏も衰微し、長左衛門家は現在の群馬県中之条町六合赤岩集落に土着し名主として存続し、その他の一族は引き続き草津温泉の湯宿を経営し、現在に至る旅館もあります。※赤岩集落は現在でも伝統的な養蚕民家が数多く現存に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、湯本家住宅は中之条町指定文化財に指定されています。

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