天童温泉・温泉街

天童温泉の歴史は比較的に新しく明治19年、農業用の灌漑用水が必要となり井戸を掘ったところ、突如として温泉が湧出したのが始まりです。当初は、この地域が鎌田原という名称だった為、鎌田温泉と呼ばれ、次第に温泉宿や飲食店などが増え温泉街が形成されました。明治44年には14箇所の井戸を改めて掘り、和夫奥に源泉が見つかった事でさらに温泉街が発展しました。大正13年、地名が天童となった事から名称も天童温泉に改称しています。温泉街といっても天童市の市街地と略同化している為、都市化が進み、大型の温泉宿が多く道路も近代的な印象を受けます。

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天童温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
天童温泉自体は明治時代に開湯した温泉なので、大きな歴史はありませんが、町自体は戦国時代に最上家と争った天童氏の旧跡や江戸時代後期から天童藩の藩主となった織田家の旧跡などが点在しています。織田家の評価は人それぞれですが、天下統一目前までいって最終的に2万石程度に没落したとも、多くの大名家が取り潰されてる中、よく明治維新まで残ったともいえます。実際戦国時代の主従関係や同盟関係は長続きしなく、勝ち馬にのって家名と領地を守る事が大事であり、より有利な方に与する事で安泰を図っていました。教科書ではよく、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉が天下統一を果たした・・・・。と記されている場合が多いですが、跡を継いだというより、織田家を乗っ取った、又は奪い取ったと、表現した方が正しく、織田家の旧臣の多くも織田家を見限り豊臣秀吉に味方し大きく版図を広げる結果となりました。天童藩織田家は、信長の2男織田信雄の家系で、本来織田家を継ぐはずでしたが、秀吉の画策により排斥され、さらに対立した事で100万石の領主から改易となり、その後許されるも5万石程度に留まっています。その後裔は紆余曲折を経て天童藩に配され、戊辰戦争の際も小藩故に戦乱に巻き込まれ、結果的に大きな犠牲を出しています。又、天童温泉の温泉街からは少し離れますが、最上三十三観音の第一番札所に選定されている若松寺(若松観音)があり、縁結びのご利益があるとして信仰を集めています。

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