鬼怒川温泉・温泉街

鬼怒川温泉は元禄4年、地元の住民により発見されたのが始まりと伝えられています。当初は滝温泉と称し村人達によって管理されていましたが、思わぬ名泉だった為、領内を支配していた日光奉行が目を付け度々所有権争いが繰り広げられました。宝暦元年、日光奉行に所有権が移ると日光東照宮に参拝に来た諸大名や僧侶などの占有となり一般住民や会津西街道の旅人達の利用は極端に制限されました。明治時代に入ると住民にも開放されるようになり、さらに対岸に藤原温泉が発見されると広く知られるようになりました。日光東照宮への観光が盛んになると下野電気鉄道(現・東武鬼怒川線)など交通網が敷かれ飛躍的に温泉街として発展、さらに水力発電所によって鬼怒川の水位が押さえられると川床から多くの源泉が発見されると一大温泉地として開発されるようになりました。昭和2年には滝温泉と藤原温泉を合わせて「鬼怒川温泉」に改称、特に「関東の奥座敷」として全国でも有名な温泉街に発展しました。

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鬼怒川温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
江戸時代初期に開湯した歴史ある温泉の割に温泉街には余り歴史を感じさせる雰囲気はありません。明治時代以降、大型の温泉ホテルや旅館が建てられた為、次第に失われたのかも知れません。鬼怒川公園に会津西街道藤原宿の旅籠建築が移築されていました。建物は明治元年(1868)に建てられたもので、木造平屋建て、旧茅葺、平入、建築面積159.20u(48.15坪)、当時の仲附輸送に関わり屋号「加登屋」を掲げていたとされます。仲附輸送とは宿場制度で定められる伝馬が宿場毎に馬を乗り換えその度に手続きや賃金がかかるのに対し、基本的に目的地まで5〜7頭の馬を引き連れた仲附が行い、手続きが1度で済む為、時間短縮や料金が安く済み重宝されました。

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