泥湯温泉・温泉街
泥湯温泉が何時頃発見されたのかは不詳ですが、一番古いものでは平安時代には既に存在していたとも云われています。一方、伝承では戦国時代、雄勝郡、仙北郡の領主で横手城(秋田県横手市)の城主小野寺家の家臣宇佐美清左衛門の母親が病気となり、心優しい清左衛門は日頃から信仰していた山神様に母親の病気を治して欲しい祈願すると、霊夢に山神様が出現し、泥湯温泉の場所と、そこで湯浴びすれば母親の病気が治るだろうと告げたそうです。清左衛門は山に分け入り源泉を発見し、母親に入浴させると忽ち病気が平癒した事から山神様に感謝し山神様を祭る社殿を設けたそうです。江戸時代に入ると硫黄や明礬を採取する為、湯沢の豪商富谷松之助が久保田藩(秋田県秋田市:本城−久保田城)から許可を得て開発し、温泉地としても湯宿の経営したされ現実的にはこれが開湯で「安楽泉」と呼ばれていました。江戸時代後期には既に湯治場として整備され薬師堂や役小屋、馬小屋、水屋、各湯屋等11棟の建物が建ち並び、文化11年(1814)には紀行家で民俗学の祖とされる菅江真澄も来訪し、泥湯山の麓には天狗山と呼ばれる山があり松や紅葉した木などあり大変趣のある風景で、温泉場には多くの小屋が建ち、沢山の人が湯治で訪れ、季節が過ぎると、湯治客も薄れ現在は柱だけになっていたとして、湯船の他に打たせ湯があった事が著書「高松日記」に記載されています。又、伝説によると泥湯温泉の色は当初は透き通る程の透明だったそうですが、余りにも透明だった事から、湯治に訪れた美しい娘が恥ずかしく困っていると、山から天狗が下りてきて、温泉を白く濁らせ女性でも入り易いようにしたと伝えられています。泥湯温泉の守護神である薬師神社には天狗のお面などが奉納され天狗信仰が根付いていた事が窺えます。現在、湯宿は3軒のみですが、木造の鄙びた建物は情緒ある温泉街の雰囲気を形成しています。
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