別所温泉は歴史のある温泉で、さずがに日本武尊が開いたとは思えませんが、平安時代に正式な歴史書として編纂された「日本書紀」に天武天皇が行幸し「束間温湯」に入湯する計画があった事が記載され、その「束間温湯」が別所温泉だという説があります。しかし、候補地は別所温泉の他、美ヶ原温泉(山辺の湯)と浅間温泉と合計3箇所ありそれぞれ理由があるようです。まずは別所温泉の理由は日本武尊が開いたとしたら景行天皇の御代にあたる為、西暦71〜130年には既に存在していた事となり、天武天皇の御代西暦676〜686年で計画されても問題は無いとされます。浅間温泉が何時頃から開かれていたのかは不詳ですが、周辺に古墳が点在している事を理由として当時から中央との繋がりがあったとしています(桜ヶ丘古墳:5世紀中期)。しかし、一般的には天慶2年(939)に周辺を支配していた犬飼半左衛門によって発見され名称も「犬飼の湯」と呼ばれていた事から、こちらの方を信じれば、年代的には合いません。美ヶ原温泉の根拠の理由はよく判りませんが、浅間温泉と同様に当時の筑摩郡に位置していた事から「筑摩=ちくま=つかま=束間」に通じ、筑摩郡にあった温泉=束間温湯と仮定しているようです。又、信濃国府の場所が特定されていませんが筑摩郡に置かれていたことが有力視されている事から浅間温泉と美ヶ原温泉のどちらかが「束間温湯」とする大きな根拠としています。しかし、別所温泉がある上田市には信濃国分寺や国分尼寺があり、総社の1つ科野大宮が鎮座している事から当初は上田市古里付近に国府があり、その後、筑摩郡に移ったという説もあります。又、美ヶ原温泉の開湯は奈良時代初期との記載が多く見られ、天武天皇は奈良時代以前の天皇なので、年代的には合いません(奈良時代は710年から794年まで。天武天皇は686年に崩御)。では、別所温泉は「束間温湯」かというと絶対的な根拠がないようです。時代が下がりますが平安時代に清少納言が製作したとされる「枕草子(堺本)」で「出で湯は、ななくりの湯。有馬の湯。那須の湯。つかまの湯。ともの湯。」と記載され、このうちの「ななくりの湯」は順徳天皇により編纂された「八雲御抄」によると信濃の御湯(別所温泉)と同義であると説明されている事から、「ななくりの湯」が別所温泉とすれば、「つかまの湯」は他の温泉という事になります。逆に、「ななくりの湯」は三重県津市榊原町の「榊原温泉」も有力視されているので、そうなると「つかまの湯」が別所温泉でも矛盾が無くなります。結局よく判らないという事になります。
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