別所温泉・温泉街(塩田平:北向観音・安楽寺など)

別所温泉(長野県上田市)の歴史は古く日本武尊が東夷東征の際、発見したとも云われています。別所温泉は発見当時7つの源泉があった事などから「七久里の湯」と呼ばれ清少納言が編纂した枕草子にも「ななくりのゆ」として記され(三重県の榊原温泉説もあります)、天長2年には慈覚大師が北向観音建立にあたり好んで入浴したとの伝承も残っています(北向観音は一般的な観音像の向きと異なり、文字通り北向きに向いています。特に長野善光寺(長野県長野市)の信仰と強い繋がりを持ち、善光寺を参拝した人は、上田市の北向観音へも参拝しないと「片参り」と言われました)。平安時代末期には木曽義仲が兵士の傷を癒す為に別所温泉を利用したとされ、葵御前の為に湯屋を設けたのが現在の大湯の由来になっています。鎌倉時代に入ると塩田平を本拠とした塩田北条氏に庇護されたと考えられ安楽寺(八角三重塔:国宝)や常楽寺(北向観音本坊)の堂宇の造営などを行う一方で地名である別所は別荘にも通じるものがあり塩田北条氏の別荘地として別所温泉の開発にも力を入れていたのかも知れません。その甲斐あってか鎌倉時代の別所温泉は信濃御湯として、名取御湯(秋保温泉:宮城県仙台市)、犬養御湯(野沢温泉:長野県野沢温泉村)又は三函御湯(いわき湯本温泉:福島県いわき市)とともに日本三御湯に数えられるほどの名声を得ています。江戸時代には上田藩(本城:上田城)が庇護し多くの共同温泉が賑ったとされ、北向観音や安楽寺などの信仰の霊場としての要素があり多くの人達が訪れたとされます。
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別所温泉・温泉街(塩田平)
歴史、つぶやき、独り言
別所温泉は歴史のある温泉で、さずがに日本武尊が開いたとは思えませんが、平安時代に正式な歴史書として編纂された「日本書紀」に天武天皇が行幸し「束間温湯」に入湯する計画があった事が記載され、その「束間温湯」が別所温泉だという説があります。しかし、候補地は別所温泉の他、美ヶ原温泉(山辺の湯)と浅間温泉と合計3箇所ありそれぞれ理由があるようです。まずは別所温泉の理由は日本武尊が開いたとしたら景行天皇の御代にあたる為、西暦71〜130年には既に存在していた事となり、天武天皇の御代西暦676〜686年で計画されても問題は無いとされます。浅間温泉が何時頃から開かれていたのかは不詳ですが、周辺に古墳が点在している事を理由として当時から中央との繋がりがあったとしています(桜ヶ丘古墳:5世紀中期)。しかし、一般的には天慶2年(939)に周辺を支配していた犬飼半左衛門によって発見され名称も「犬飼の湯」と呼ばれていた事から、こちらの方を信じれば、年代的には合いません。美ヶ原温泉の根拠の理由はよく判りませんが、浅間温泉と同様に当時の筑摩郡に位置していた事から「筑摩=ちくま=つかま=束間」に通じ、筑摩郡にあった温泉=束間温湯と仮定しているようです。又、信濃国府の場所が特定されていませんが筑摩郡に置かれていたことが有力視されている事から浅間温泉と美ヶ原温泉のどちらかが「束間温湯」とする大きな根拠としています。しかし、別所温泉がある上田市には信濃国分寺や国分尼寺があり、総社の1つ科野大宮が鎮座している事から当初は上田市古里付近に国府があり、その後、筑摩郡に移ったという説もあります。又、美ヶ原温泉の開湯は奈良時代初期との記載が多く見られ、天武天皇は奈良時代以前の天皇なので、年代的には合いません(奈良時代は710年から794年まで。天武天皇は686年に崩御)。では、別所温泉は「束間温湯」かというと絶対的な根拠がないようです。時代が下がりますが平安時代に清少納言が製作したとされる「枕草子(堺本)」で「出で湯は、ななくりの湯。有馬の湯那須の湯。つかまの湯。ともの湯。」と記載され、このうちの「ななくりの湯」は順徳天皇により編纂された「八雲御抄」によると信濃の御湯(別所温泉)と同義であると説明されている事から、「ななくりの湯」が別所温泉とすれば、「つかまの湯」は他の温泉という事になります。逆に、「ななくりの湯」は三重県津市榊原町の「榊原温泉」も有力視されているので、そうなると「つかまの湯」が別所温泉でも矛盾が無くなります。結局よく判らないという事になります。
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