鳴子温泉・温泉街

鳴子温泉(宮城県大崎市)の開湯は承和4年(837)、火山活動で湧き出た事が続日本後紀に記載されています。続日本後紀は平安時代の斉衡2年(855)から貞観11年(869)に編纂された朝廷による正式な歴史書で、仁明天皇(第54代天皇・在位:天長10年:833年〜嘉祥3年:850年)の御代に起きた事象が纏められてます。続日本後紀は実録的な要素が強い事から政治関係以外は概ね事実が反映されていると推察され、承和4年に当地で大きな火山活動があり轟音が鳴り止まらず、その後、鳴子温泉の源泉が噴出した可能性は高いと思われます。又、守護神である鳴子温泉神社は貞観5年(863)には従五位下に列っしている事からも、源泉そのものが温泉神として神聖視され、源泉が噴出して間もなく信仰が始まったと思われます。一方、伝承では平安時代に源頼朝から追われた源義経が奥州平泉が下向する際、室である北の方が亀若丸を出産し、当地の川原湯温泉に浸かった時、初めて産声をあげ「啼子」=「鳴子」と呼ばれるようになったとも云われています。こちらの方は、資料的な価値が低いとされる「義経記」に記載されているものが当地に根付き伝承になったものですが(そもそも、源義経が没後、数百年後に編纂された)、もしかしたら筆者が伝承や資料などを基に編纂した可能性もあるかも知れないために興味深い話ではあります。出羽街道が整備され旅人や物資の往来が盛んになると次第に温泉街として発展しています。数多くの源泉を持っている事から様々な泉質や効能の温泉が点在し、飯坂温泉(福島県福島市飯坂町)秋保温泉(宮城県仙台市)と共に奥州三名湯に数えられています。鳴子温泉には小さな温泉旅館から大規模なホテルなど様々な施設により温泉街が形成されています。鄙びた温泉街とまでは行きませんが、かなり人気のある温泉街の為、御土産を売る店なども見受けられます。又、特産品でもある「鳴子こけし」の生産地でもあり、遠刈田温泉(宮城県蔵王町)の「遠刈田こけし」と土湯温泉(福島県福島市)の「土湯こけし」と共に日本三大こけし発祥の地に数えられています。

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鳴子温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
鳴子温泉は平安時代の女流作家で歌人、清少納言が執筆したとされる「枕草子」の一説の「湯は、ななくりの湯有馬の湯、玉造の湯」の「玉造の湯」とする説があります(清少納言の日本三名泉)。一般的には島根県松江市玉湯町に位置する玉造温泉をあてる事が通説で、玉造温泉は「出雲国風土記」にもその存在が記載され、天皇家に伝わる三種の神器のうち八尺瓊勾玉が当地で製作、八尺瓊勾玉の製作者である櫛明玉命は玉造温泉の鎮守である玉作湯神社に祀られている、都からも比較的(鳴子温泉に比べると)に近いなどが理由となっています。決定的というよりは名称と朝廷との繋がり、知名度が大きく作用したようです。対する鳴子温泉は、そもそも笠間書房の能因本系「枕草子」の中の注釈に「玉造の湯」は宮城県玉造郡鳴子町の玉造温泉の事と説明されています。当然、この注釈は清少納言自らが説明した訳ではありませんので、編纂に協力した「枕草子」の研究者が研究の末、鳴子温泉=玉造温泉という結果に辿り着いたということだと思います。背景には朝廷による正式な歴史書として編纂された日本書紀に鳴子温泉の成り立ち(承和4年:826年、鳥屋ヶ森山の噴火で現在の温泉神社の境内から源泉が湧き出た)が記載されていたことや、当時は玉造郡に属し玉造の湯と呼ばれていたこと、鳴子温泉の近くには陸奥国の国府である多賀城(宮城県多賀城市)と出羽国の国府である秋田城(秋田県秋田市・国府としての機能は比較的に短く、山形県酒田市の城輪柵などの移ったとも云われてます。)を結ぶ官道が整備されていた事などが挙げられまが、こうなると、どちらが「枕草子」に出てくる「玉造の湯」かは判りません。しかし、観光的には松江市にある玉造温泉が大きく宣伝し、鳴子温泉では現在は特に触れていないように感じます。

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