青根温泉・温泉街

青根温泉(宮城県川崎町)には次のような伝説があります。「うなぎとかにの伝説」によると名峰蔵王の中腹にある三階滝(日本滝100選)の滝壺の主だった蟹が大きく成長した為、三階滝の滝壺より大きかった不動滝の滝壺に移ろうとすると、そこには不動滝の主である大鰻が住んでいた事から縄張り争いが起きました。激闘の末、大鰻は蟹の鋏により大きく3つに切断され頭部が青根、腹部は峩々、下部は遠刈田に投げ捨てられそこから温泉が湧き出たと伝えられています。その為、青根温泉では頭、峩々温泉( 宮城県柴田郡川崎町前川峩々)では胃腸、遠刈田温泉(宮城県刈田郡蔵王町)は足腰に効能があるそうです。歴史的は享禄元年(1528)、戦国時代に当地を治めた砂金氏の家臣佐藤掃部の息子である佐藤彦惣がアオヌキの木の下から源泉が湧き出ているのを発見し天文15年(1546)湯宿を設け、「アオヌキの根の下」に因み青根温泉と呼ばれるようになったのが始まりとされます。慶長17年(1612)、佐藤家は仙台藩主伊達家より青根温泉の湯別当を仰せつかり東鳴子温泉(宮城県大崎市)と共に藩主の御殿湯が設置されました。山本周五郎の小説「樅の木は残った」の舞台でもあり与謝野晶子夫妻や古河政男などの文人墨客なども数多く訪れています。源泉は「大湯」、「新湯」、「山の湯」、「蔵王の湯」、「不忘の湯」、「花房の湯」、「新名号の湯」の7つです。青根温泉の温泉街は所謂「温泉街」という印象が少なく、数軒の温泉宿が片を寄せ合うように集まったという感じを受けます。湯元不忘閣が伊達家の御殿湯の後継の温泉宿で、昭和7年(1932)に再建された青根御殿や、復元した御殿湯、伊達家縁の家宝などを所有しています。

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青根温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
青根温泉には「うなぎとかに」伝説と佐藤彦惣開湯伝説の他、あこや姫伝説が伝えられています。要約すると朝廷で右大臣職を担っていた藤原豊成は奥方と美しい娘、中将姫と3人で暮らしていました。しかし、奥方は中将姫が7歳の時に病気で亡くなり、豊成は新しい奥方を迎えました。当初は3人で仲良く暮らしていましたが、新たにあこや姫という妹が生まれると奥方は中将姫につらく当たるようになり、ついに殺意を抱くまでになります。奥方は家臣に命じて中将姫を山中まで連れ出し殺害するように命じると、家臣は山中まで連れ出しましたが、遂に殺す事が出来ず、殺したように見せかけて中将姫と共に姿を消しました。数年後、豊成が狩の為、山中深く分け入り、道に迷い1軒の炭焼き小屋に助けを求めると、そこには死んだはずの娘と消した家臣の姿を見つけました。事情を聞いた豊成は奥方を成敗しようとしましたが、中将姫は継母の気持ちを汲んで許すように嘆願し自らは尼となり寺に入りました。奥方も罪の意識を感じながら亡くなり、豊成もこの世の無常を感じ陸奥国に旅すると言って姿を消しました。1人残されたあこや姫は、父親を求めて陸奥国に向かいましたが、まだ幼く、旅なれていなかった事から、丁度、青根温泉付近で行き倒れてしまいます。すると、近くから湯気が立ち込めているを発見し、村人に頼んで宿を借り、数日間、温泉治療を行うと病が平癒し元気になりました。あこや姫は青根温泉の効能を村人達に伝えると出羽の国の方に旅立ちましたが、結局父親に遭うことが出来ず、結局尼となり現在の山形県山形市にある千歳山の麓に草庵(現在の萬松寺)を設けて一生を過したそうです。萬松寺のある千歳山にはこれとは別のあやこ姫伝説が残されています。

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