繋温泉(つなぎ温泉)・温泉街

繋(つなぎ)温泉(岩手県盛岡市)は前九年の役で源義家が湯ノ館山に着陣した際、白い湯気が立ち上がるの見て発見したと伝えられています。義家は傷ついた愛馬を石に繋ぎ入浴させると忽ち傷が治ったとされ、繋温泉の名前の由来となっています。鎌倉時代に入ると出羽三(山形県鶴岡市)の修験僧「安楽院」が温泉地の開発を進め、後裔は佐藤氏と称し繋温泉の湯守として温泉の管理が任されています。江戸時代に入るろ盛岡藩庁が置かれた盛岡城(国指定史跡)から近っかた事から藩主はじめその家族や家臣なども湯治に訪れています。盛岡藩では藩内の大湯温泉(秋田県鹿角市)、繋温泉(岩手県盛岡市)・鶯宿温泉(岩手県雫石町)・湯田温泉(岩手県西和賀町)・台温泉(岩手県花巻市)の5つの名湯を盛岡藩五湯と呼び、保養地として保護しました。

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繋温泉(つなぎ温泉)・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
永承6年(1051)、蝦夷の首領格だった安倍頼時が朝廷に反旗を翻し、所謂「前九年合戦」が勃発しました。形式的に朝廷の支配は本州の先端まで及びましたが、蝦夷と呼ばれる人々はまだまだ健在で、さらに差別的に行われた圧制に苦しんでいたと思われます。一般的に蝦夷の中でも朝廷に比較的に従順だった者を俘囚と呼び、安倍氏はその俘囚長として陸奥国の奥六郡の俘囚を束ねる立場でしたが、一方で秋田城(秋田県秋田市・国指定史跡)や多賀城(宮城県多賀城市・国特別史跡)にも朝廷の役人が配属されていました。頼時は要所に柵を設け、納税を拒否するなど独立運動的な行動を行うと、朝廷は陸奥守だった藤原登任と秋田城介の平繁成に安倍氏追討の命を下し戦端が開かれました。初戦は安倍氏側の圧勝となり、朝廷側も源頼義を陸奥守として派遣するなど、さらに対立が深まりますが後冷泉天皇祖母・上東門院の病気平癒の祈願を行う為に大赦を行い、安倍氏の罪も許され形式上は和平となります。しかし、ささいな事から再び対立関係となり再び戦端が開かれ、頼時の跡を継いだ安倍貞任が討ち取られるまで戦闘が繰り広げられました。安倍氏の拠点となった厨川柵や嫗戸柵は盛岡市にある事から繋温泉が朝廷軍の陣が敷かれた可能性はありますが(繋温泉の湯ノ館山に陣を張ったとの伝承が残されています)、真偽の程は確かではありません。東北地方には源頼義と子供の源義家の伝説や逸話、創建や関係が深いとされる神社仏閣もやたらと多く存在し、どこまでが真実でどこまでが虚構なのかさっぱり判らないのが実情となっています。

秋田城: 秋田城は奈良時代に築城された古代の城柵で、当時は大和朝廷の蝦夷に対する日本海側の最前線でした。蝦夷や俘囚などの反乱で度々戦場となり大きな被害を受けています。一時、出羽国府が設置され、日本海を介して渤海との交流もあり迎賓館的な機能も兼ね備えられていました。文化的にも古四王神社(当時の四天王寺)や空素沼神社(当時の高泉神)などが創建されました。

多賀城: 多賀城は奈良時代に築城された古代の城柵で、当時は大和朝廷の蝦夷に対する太平洋側の最前線でした。陸奥国府が置かれ、戦線がさらに北上した後も政治的な中心は維持され、南北朝時代に多賀城(陸奥将軍府)が落城するまで重要視されました。周囲には塩釜神社や陸奥国総社、多賀城廃寺なども創建され文化的にも大きく発展し、歌枕とされる多賀城碑が発見されています。

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