有馬温泉(日本三名泉)・温泉街

有馬温泉(兵庫県神戸市)は日本書紀によると舒明天皇や孝徳天皇が湯治を訪れた事が記載され古代から中央にも知られた存在だった事が窺えます。その後、衰退しましたが奈良時代の名僧行基菩薩が薬師如来の御告げにより再興し、その際、温泉地の守護寺として温泉寺を創建し再び賑いを取り戻しました。平安時代には清少納言の「枕草子」で七栗の湯、有馬の湯、玉造の湯の事を優れた温泉地(日本三名泉)として紹介しています。その後、自然災害が重なり再び衰微しましたが(元暦2年(1185)7月9日に発生した文治地震は、特に近畿地方に被害が大きく、有馬温泉も壊滅的な被害を受けたと推定されています)、鎌倉時代初期に熊野権現の御告げに仁西が当地まで導かれると、1人の老人が出現し源泉の位置を告げられました。仁西は告げられた場所から源泉を見つけ出すと、温泉地として再整備すると共に温泉寺や湯泉神社も再興させ、特に温泉寺には本尊である薬師如来を守る十二神将をなぞり12坊を設けたとされます。その12坊は宿坊を兼ねるようになり、現在でも数件の温泉旅館はその流れを汲んでいるとされます。室町時代に入ると3代将軍足利義満や13代将軍足利義輝などが湯治に訪れ、戦国時代に入ると争乱が続き荒廃しますが、豊臣秀吉と正室である北の政所(おね)が再興し、何度湯治に訪れています。特に天下統一が成った天正18年(1590)10月4日には多くの家臣と共に千利休を伴い、大規模な茶会が行われています。慶長元年(1596)7月12日に慶長伏見大地震が発生すると秀吉の湯山御殿が大破しただけでなく源泉の温度も上昇しましたが、翌年には再興が行われ慶長3年(1598)には御殿も再建を果たしています。ただし、同年、秀吉が死去した為、生まれ変わった有馬温泉の姿を見る事が出来ませんでした。江戸時代には儒学者・林羅山が有馬温泉、草津温泉下呂温泉を日本三名泉として詩文に残し、江戸時代後期になり庶民の行楽が盛んになると数多くの湯治客が訪れるようになります。
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有馬温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
有馬温泉では正月の1月2日、入初式と呼ばれる行事が行われ、全国的にも珍しい神仏習合の例祭で湯泉神社と温泉寺の両者が主体となっています。この祭りは有馬温泉を発見した大国主命と開発に尽力した行基菩薩、仁西上人の感謝、新年を祝う為に行われるもので、湯泉神社の神官と温泉寺の僧侶、温泉関係者が扮する湯女が温泉街を練り歩き、式場では湯女が新年はじめの初湯を適温に冷やし、「入初式の歌」を歌いながら行基菩薩像と仁西上人像に初湯を楽しんでもらい、再び行列で温泉寺に両像が帰っていきます。入初式は大変貴重な行事として神戸市無形民俗文化財に指定されています。
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