東山温泉・温泉街

東山温泉(福島県会津若松市)の歴史は古く、天平年間、行基菩薩が仏教を広める為、当地を訪れた際、八咫烏に導かれ温泉に猿が湯浴びいるのを見つけたのが始まりと伝えられています。中世に入ると天寧寺の寺領となり「天寧寺の湯」と呼ばれるようになり、江戸時代に入ると会津藩の湯治場として整備されました。湯治場には藩主の別荘である「新瀧」、藩の保養所である「きつね湯」、藩の座敷役場である「瀧の湯」などが設けられ次第に発展していました。戊辰戦争の際には新撰組の土方歳三が宇都宮城の攻防戦で傷を負い、その傷を癒す為に湯治に訪れており当時から傷や打ち身に効能があることが知られていました。明治時代以降は全国的にも知られるようになると竹久夢二や与謝野晶子などの文人墨客が多数訪れています。会津藩が行楽地として許可していた事もあり明治時代以降は数多くの芸妓が働き上山温泉湯野浜温泉と共に奥羽三楽郷に数えられました。

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東山温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
温泉街から羽黒山の頂上付近まで長い参道があり羽黒山湯上神社が鎮座しています。現在は参拝者というより、トレーニングとして石段(1225段)を利用している方が多い様な気がする程、運動不足の人にはキツイ参道です。創建は東山温泉を開湯した行基菩薩で、所謂、八咫烏(3本足のカラス)に導かれ霊地と悟り一宇を設けたとされています。当初は軍荼利明王、妙見菩薩、聖観音菩薩が祀られている事から三社権現と称し、別当寺院として東光寺が祭祀を司り、最盛期は山岳信仰の拠点として300余の僧坊が建ち並んでいたそうです。詳細は判りませんが、山形県の出羽三山の一翼を担った羽黒山修験の管理下にあったと思われ、山号と同様に例大祭の「さんげさんげ」では「さんげさんげ ろっこんしょうじょ にぎにぎやくしの じゅうにじぞうはい じぞうやくしの なむかみじょ なむきみをちょうらい」との口上で参道を上がるといった神事も、出羽三山の麓にある肘折温泉(山形県大蔵村)で山伏の年越し行事として「さんげさんげ」が伝えられています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により東光寺が廃寺となり、三社権現も羽黒山湯上神社に改称、祭神も出羽三山の出羽神社(羽黒山)と同様に倉稲魂命を祭るようになっています。

東山温泉の温泉街の一角に「高志王神社」が鎮座しています。これは、古四王神社や胡四王神社と同じ系統の神社で、一般的には孝元天皇の第一皇子とされる大毘古命(大彦命)が祭られています。大毘古命は四道将軍に任命されると、現在の北陸地方に派遣され、同じく四道将軍の1人で大毘古命の子供とされる建沼河別命は東海地方に派兵、2神は開発を進めながら北上し会津地方で出会った事から「会津」の地名の由来になったとも云われています。古四王神社は大毘古命が越国と呼ばれた現在の福井県、石川県、富山県、新潟県の支配者として「越王(こしおう)」と呼ばれていた事が起因しているとされますが、一般的に福井県、石川県、富山県、新潟県南部には目立った古四王神社は存在せず、逆に新潟県北部から秋田県までの日本海側と岩手県、福島県会津地方に集中的に鎮座している事から、当時の朝廷が北進する過程で政策的に勧請されたとも考えられます。又、本社格とされる秋田県秋田市寺内に鎮座する古四王神社は、出羽国府が置かれた秋田城の守護寺である四天王寺を前身としていると推定される事から、「古四天王(こしてんおう)」が転じたとの説もあります。会津地方に鎮座する古四王神社(福島県喜多方市)には秋田の古四王神社(秋田県秋田市寺内)と新潟の古四王神社(新潟県新発田市)の三社を「日本三社」として伝えられています。

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