岳温泉・温泉街

岳温泉(福島県二本松市)は坂上田村麻呂が東夷東征で当地に着陣した際、源泉を見つけたとの伝承が伝えられています。日本三代実録には貞観5年、岳温泉の守護神である小結温泉神が記載されている事から以前から存在していたと推定されています。当初の温泉場は鉄山の麓にあり比較的小規模なものでしたが江戸時代に入ると二本松藩が温泉街を開発し藩主の御殿湯も設けられました。その後、徳川光圀も寛永15年と元禄11年に岳温泉を訪れ、「安達岳の湯守にあたふ風外山の奥にかかる男をみちのくの二本松なら又も近平」の狂歌を残しています。文政7年、大雨で山津波が発生し温泉街が大破、200人を超える犠牲者を出すなどの被害を受け、二本松藩は十文字に温泉街を移し再興しています。嘉永5年の「諸国温泉功能鑑」では全国温泉番付東前頭2枚目に列するなど再び隆盛しますが、戊辰戦争で温泉街は焼き払われ、明治3年に深堀村に温泉地が移されました。再建当時は二本松藩の庇護も無くなり湯屋も9軒と往時の繁栄は見られず、さらに明治36年の火災により多くの建物が焼失し、明治39年に岳に温泉地が移されました。

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岳温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
岳温泉は歴史が長い温泉ですが、度々災害に襲われ壊滅的な被害に逢い、その都度温泉地を変えるといった特異な経緯を辿っています。特に文政7年(1824)8月15日には台風と思われる暴風雨が吹き荒れ鉄山の一角が大崩落を起こし温泉街全てを飲み込んでしまう大災害となり、記録によると当時の岳温泉には関係者、湯治客など196名滞在し、死者は湯元人18名、湯治客45名、合計63名、負傷者は湯元人15人、湯治客27名、合計42名の犠牲者が発生していま。二本松藩は約600名を派遣して救済にあたりましたが季節柄、死体の腐敗が進み数日後には顔だけでは判断出来ない状態になった事が文献で記載されています。記録上の死傷者は上記のように105名ですが、当時戸籍のない湯女が約100余り岳温泉で働いていたとされ、その生死は記載されていない為、実際は記録よりも被害が大きかったとされます。

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