芦ノ牧温泉の地名の由来にもなった中世の領主芦名氏は最盛期には会津地方を中心に70万石から80万石の大大名で南東北地方で最大の大名でした。それが、天正18年(1589)に摺上原の戦いで伊達政宗に大敗しただけで、当時の当主芦名義広は実家の佐竹氏が領する常陸の国に落ち延びました。義広は佐竹家の当主佐竹義重の2男として天正3年(1575)に生まれ、天正13年(1586)、僅か10歳で芦名氏の養子となり、14歳で摺上原の戦いに臨む事となります。外様の養子という肩身の狭い立場で、元服して間もない現在で言えば中学生が名門芦名氏を小さい両肩に担ぐ事を思えば現実的に無理があります。対する伊達政宗は23歳、まだまだ若造ですが、何度か合戦を経験し、譜代の家臣や一族に囲まれ士気も高く精鋭ぞろい、これでは勝利を掴む事は難しかったと思われます。義広自身、どの程度この合戦に関わったのかは判りませんが、逃げ出す気持ちは伝わってきます。戦い自体も、豊臣秀吉が発令した惣無事令違反で、豊臣家に従った佐竹氏も芦名氏再興を願いましたが、結局、江戸崎領(茨城県稲敷市江戸崎)4万5千石しか認めらず、伊達政宗は摺上原の戦いで得た80万石がそっくり返上となり、さらに奥州仕置きの際に発生した一揆の不手際から58万石で岩出山(宮城県大崎市)に移封となっています。
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