野沢温泉概要: 野沢温泉の冬の風物詩としてしても知られる道祖神祭りは松明あかし(福島県須賀川市)、向田の火祭り(石川県能登島町)、お松明(京都府京都市嵯峨)、鬼すべ(福岡県太宰府市)、鬼夜(福岡県久留米市)、山口七夕ちょうちんまつり(山口県山口市)などと共に日本三大火祭りに数えられています。道祖神火祭りの起源は判りませんが、野沢温泉の鎮守である湯沢神社に主祭神として祭られている建御名方命が出現した際、現在の社殿がある地まで道案内した猿田彦神を道祖神として祭るようになり、伝承では18世紀前後に火祭りが始まったと伝えられています。下根道祖神の境内には天保10年(1839)に文字碑と祠が建立されている事からも江戸時代末期には盛大に開催されていた事が窺えます。当初は上根と下根に別れ2箇所で開催していましたが大正元年(1912)に火災に恐れがあるとして、下根で「採火」が行われ、上根が「祭りの場」として現在に近い形式に改変されています。道祖神祭りは古式を伝える年中行事として大変貴重な事から平成5年(1993)に国指定無形民俗文化財に指定されています。道祖神は元々、道を司る猿田彦神とされ、街道の分岐点や、坂や曲がり角など道の特異点などに建立され道中安全が祈願されていましたが、時代が下がると村や集落の境に設けられ、外部からの災厄や疫病を防ぐ神や子孫繁栄の性神としても信仰されるようになりました。長野県では小正月行事(どんど焼き)や厄払いとも習合し独特な発展をとげ、特に野沢温泉の道祖神祭りは最大規模を誇ります。
野沢温泉が何時頃から開かれたのかは判りませんが、平安時代に編纂された「拾遺和歌集」に「犬養の御湯」の事が記載され、その「犬養の御湯」が野沢温泉の事であるとされます。「犬養」の地名は奈良時代以前の大和朝廷の部民制による犬養部(犬を飼養・使用を生業とし大和朝廷に仕えた部族の事で、当時の犬は狩猟や守衛に用いられた事から重用され)が当地に配された可能性が高いとされ、中世にはその後裔と思われる犬飼氏を称する土豪が存在しています。野沢温泉は自噴が多い事から当時の犬養部の一族が発見していた可能性もあります。伝承によると奈良時代に初期にマタギ(犬養部の後裔?)が狩猟により熊を射抜き、その熊が源泉に浸かり傷を癒していたとも、高僧として知られる行基菩薩が小菅神社(飯山市)に向かう途中に当地を訪れ源泉を見つけたとも云われています。記録的には上記のように「拾遺和歌集」に野沢温泉と思われる「犬養の御湯」の事が記載されている事から少なくとも平安時代には広く知られた存在で、鎌倉時代後期の文禄9年(1272)には「湯山村」と呼ばれていた事が判っています。
鎌倉時代に入ると名湯としての知名度が大きく広がり、順徳天皇が編纂した歌論書「八雲御抄」には全国の名湯が複数採り上げられる中、「名取湯(現在の秋保温泉)」、「信濃湯(現在の別所温泉)」、「犬養湯」の3つの温泉地だけが名称の後ろに「御」の字が加えられていた事から、この3つの名湯の事を「日本三御湯」として特別視されていたようです。「御」の字は天皇や朝廷と深い繋がりを示しているとも云われ、この中の「犬養湯」所謂「犬養御湯」は野沢温泉の事を指している事から、野沢温泉は当時から中央と関係が深い存在だったのかも知れません。戦国時代には市河氏が領主として当地を支配していましたが、武田信玄(甲斐国守護職)の信濃侵攻により軍門に下った事から弘治3年(1557)に野沢の地で上杉謙信(春日山城の城主、越後守護職、関東管領)の攻撃を受け、その時の様子が上杉方の「小菅元隆寺願文」と武田方「市河藤若宛武田晴信書状」の両軍の資料が残されています。
江戸時代に入ると飯山藩(長野県飯山市:本城−飯山城)の管理となり、寛永年間(1624〜1643年)には飯山藩主松平氏が現在の大湯のある場所のに御殿湯(別荘)を設けて温泉街を整備しています。江戸時代後期には庶民にも広く知られるようになり天保5年(1834年)には「野沢温泉療法」が発刊され、天領時代である天保8年(1837)には湯治宿が24軒があり、天保10年(1839)から弘化4年(1849)頃には、坂東三十三番、西国三十三番、秩父三十四番の合計百の観音霊場(野沢温泉村指定名勝)の石仏や石碑が建立され、現在に続く「湯仲間」の整備も江戸時代に成立しています。現在、残されている野沢温泉の外湯は、上寺湯 、中尾の湯 、十王堂の湯、大湯、新田の湯、松葉の湯、横落の湯、河原湯、滝の湯、熊の手洗湯、真湯、秋葉の湯、麻釜の湯の13箇所で江戸時代から地元の有志で結成されている「湯仲間」により管理運営されています。
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