大湯温泉との関係性
【 行基・伝説 】−伝説によると養老2年(718)に行基菩薩により発見されたと伝えられています。それ以上の詳細は不詳ですが同じ湯之谷温泉郷にある栃尾又温泉も養老2年(718)に行基菩薩により発見されたと伝えられています。温泉街には守護仏である薬師尿来像が祭られていたと思われる薬師堂が明治時代の神仏分離令後に熊野神社に社号を改め、鎮守として境内を構えています。
【 行基・実・年表 】−養老元年(717)には行基菩薩が行った一般民衆への布教活動が僧尼令違反として弾圧されています。養老2年(718)に大和国添下郡(奈良県奈良市・大和郡山市・生駒市)に隆福院を起工。
【 場 所 】−新潟県魚沼市
【 概 要 】−開湯後の歴史の詳細は不詳ですが、寛永18年(1641)に湯之谷郷折立の百姓である源蔵が赤川表(現・只見川)で銀の銀鉱(上田銀山)を発見すると、高田藩(新潟県上越市:本城−高田城)と会津藩(福島県会津若松市:本城−鶴ヶ城)との国境争いの後、明暦3年(1657)から高田藩の裁量で採掘が始まり、元禄2年(1689)には会津藩領側の白峰銀山で銀鉱が発見されました。これにより周辺には鉱夫の他、商人、職人、医者、遊女などが集まる鉱山町が形成され最盛期には2万5千人を擁する一大都市に発展しました。大湯温泉の温泉街は三国街道の小出宿から銀山に至る街道である銀山道中の宿場町として活況を呈し、街道に設けられた8箇所の宿場町の中では随一の湯量と泉質を持った事から大きく繁栄しました。江戸時代末期の安政6年(1862)に手違いから大量出水し、多くの犠牲者を出すと共に坑内全域に水が入り込み閉山となり、以後、大湯温泉は宿場町の機能が失われ、周辺住民の湯治場となっています(現在、上田銀山の跡地はダムの人工湖である奥只見湖の湖底に沈んでいます)。
【 行基・周辺・史跡 】−栃尾又温泉(新潟県魚沼市:行基により発見)・見玉不動尊(新潟県中魚沼郡津南町:行基が不動明王像を彫刻し一宇を設けた)
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