草津温泉との関係性
【 行基・伝説 】−養老5年(721)、行基菩薩が巡錫により当地を訪れた際、余りにも山深かった為道に迷ってしまいました。すると、どこから凄まじい霊気が漂ってきた為、行基菩薩はその気に導かれるまま身を任せていると、地面から今まで感じた事の無い程の仁恵が噴き出している場所に辿り着きました。行基菩薩は霊地と悟り、その場で祈祷を行うと霊泉が湧き出た事から、自ら薬師如来像を彫刻し一宇を設けて安置したと伝えられています(病人の為に錫杖を突いたら、そこから源泉が湧き出したとも)。その後は、立派な薬師堂が建立され、別当寺院となる草津山光泉寺が開山しています。別当職をに担ったのは草津温泉の湯守を代々歴任した湯本氏で、戦国時代には土豪として武田家の家臣真田家に従い度々合戦にも参加し当地域の支配を認められています(湯本氏の長左衛門家は武田家が没落後、赤岩集落(群馬県中之条町)に移り住み名主となり、残された一族は草津温泉の湯宿を経営し現在に至っています)。草津温泉の功能が全国的に広まり多くの湯治客が訪れるようになると、光泉寺の薬師如来像は草津温泉の守護仏として信仰されるようになり、日本三大温泉薬師(有馬温泉の温泉寺の他は山中温泉、城崎温泉、道後温泉の何れか)に数えられました。
【 行基・実・年表 】−養老5年(721)に寺史乙丸から旧邸宅の寄進され奈良県奈良市菅原町に菅原寺を起工しています。※実年表とは関係ありませんが、宮城県仙台市青葉区にある作並温泉も養老5年(721)に行基により発見されとの伝説が残されています。
【 場 所 】−群馬県吾妻郡草津町
【 概 要 】−草津温泉には行基菩薩の他にも日本武尊や源頼朝が発見したとの伝説が残されていますが、実際には室町時代になるまで明確な記録が残されていないのが現状です。戦国時代には周辺の国人領主や土豪が危険を顧みず草津温泉に湯治に訪れ、その間に居城が脅かされたとの記録が残される程の人気があり、室町中期の禅僧万里集九の著書「梅花無尽蔵」の中では日本の数ある温泉の中でも草津温泉と有馬温泉(兵庫県神戸市)と下呂温泉(岐阜県下呂市)は最も著しいと記載しています(日本三名泉)。戦国時代も終焉の頃には知名度はさらに広がり、豊臣秀次や大谷吉継、前田利家といった名立たる大名が湯治に訪れ、豊臣秀吉も湯治の計画を行ったとの記録が残されています(実際には行われいない)。江戸時代に入ると徳川総軍家が気に入り、8代将軍徳川吉宗は態々江戸城まで源泉を運ばせ(湯畑には源泉を採泉した木枠が残されており、「お汲上げの湯枠」として草津町指定史跡に指定されています)、幕府の儒学者林羅山も万里集九を追認し日本三名泉(草津温泉・有馬温泉・下呂温泉)として紹介しています。一般庶民から篤い支持を受け、多くの湯宿が軒を連ねるようになり「草津千軒江戸構え」などとも詠われるようになり年間1万人を越える湯治客が訪れたそうです。
【 行基・周辺・史跡 】−泉龍寺(群馬県吾妻郡高山村:天正20年:1592年、行基菩薩の霊地とされた当地に境内を移したとの伝承が残されています)。 |