有馬温泉との関係性
【 行基・伝説 】−神亀元年(724)、行基菩薩が昆陽池(兵庫県伊丹市:行基菩薩の指導により設けられた農業用「ため池」。行基菩薩が行った公共工事の一つとして知られています。現在は昆陽池公園として整備され、農林水産省による「ため池百選」に選定されています。)の築造に尽力していた際、1人の病人が行基の前に現れ、有馬温泉で治療したいので連れて行って欲しいと懇願しました。行基は病人の願いを聞きいれ背負って有馬温泉に辿りつくと、そこには荒廃した土地が広がっているだけでした。すると、病人が薬師如来に姿を変え、有馬温泉を再興するように告げ紫雲に乗って姿を消しました。行基は出現した薬師如来像を模した木像を彫刻して一宇を設け、有馬温泉の再興に尽力したと伝えられています。
【 行基・実・年表 】−養老5年(721)に菅原寺(現在の喜光寺)を起工。神亀元年(724)、和泉国大鳥郡(大阪府和泉市)に清浄土院(高渚寺)とその尼院を建立。神亀2年(725)、河内国交野郡(大阪府交野市・枚方市)に久修園院を起工。
【 場 所 】−兵庫県神戸市有馬
【 概 要 】−大已貴命と少彦名命が日本国土開発する為に当地を訪れた際、傷ついた3羽のカラスが水溜りに浸かり傷口を癒している姿を見つけ、近づいてみると霊泉が湧き出しているのを発見したのが有馬温泉の開湯とされます。有馬温泉には災害が頻発する土地柄だったらしく、当初は功能と、都に近い事から天皇や皇族が頻繁に訪れていましたが、行基が訪れた時には既に荒廃し、再興したものの承徳元年(1097)には大洪水で再び荒廃しています。その後、仁西により再び再興しましたが、戦国時代には兵火と地震で壊滅的な被害を受けます。その時、温泉街を再興したのが豊臣秀吉で、行基、仁西、秀吉を「有馬の三恩人」としています。又、室町中期の禅僧万里集九の著書「梅花無尽蔵」の中では日本の数ある温泉の中でも草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉と下呂温泉(岐阜県下呂市)は最も著しいと記載し、江戸時代には幕府の儒学者である林羅山が日本三名泉であるとして称えています。
【 行基・周辺・史跡 】−薬仙寺(兵庫県神戸市兵庫区今出在家町:天平年中:729〜748年に行基の開山)・明泉寺(兵庫県神戸市長田区明泉寺町:天平7年:735年、行基が畿内に49院を創建した1つ)・毘沙門山妙法寺(兵庫県神戸市須磨区妙法寺毘沙門山:天平10年:738年に行基の開基)・温泉寺(兵庫県神戸市北区有馬町:神亀元年:724年に行基の開基)・善福寺(兵庫県神戸市北区有馬町:奈良時代に行基を開基)・太谷寺(兵庫県神戸市西区伊川谷町:神亀3年:726年に行基が開山)・福智院性海寺(兵庫県神戸市西区押部谷町:天平2年:730年に行基が開基)・長福寺(兵庫県神戸市西区押部谷町:天平2年:730年に行基が開基)・日輪寺(兵庫県神戸市西区玉津町:神亀元年:724年が開基)。
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