下呂温泉(日本三名泉・観光・歴史):概要 下呂温泉は天暦年間(947〜957年)に発見されたのが始まりとされ、当初は現在の下呂温泉から数キロ離れた湯が峰(標高1067m休火山)の山頂付近にありました(諸説あり延喜年間とも。)。文永2年(1265)、突如として源泉から湧出が止まり、多くの人達が嘆き悲しんでいましたが、翌年、一羽の白鷺が毎日益田川の河原に降り立つ姿を見た住民の1人が不思議に思いその場所へ行ってみると、新たな源泉から温泉が湧き出ているのを発見しました。白鷺が飛び去った方向を見ると神々しい光を放っていた為、住民は光の源を求めて山深く分け入ると一体の薬師如来像が光り輝いていた為、住民達は白鷺が薬師如来の化身と悟り御堂を建立すると長く信仰したと伝えられています。その後、下呂温泉の名湯の名声は広がり室町時代の禅僧で歌人である万里集九も下呂温泉を訪れ「梅花無尽蔵(東国旅行記:漢詩文集)」で全国の霊湯の中で草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉(兵庫県神戸市)、湯島温泉(下呂温泉:岐阜県下呂市)の3つが最も著しいとして広く紹介しています。江戸時代の儒学者林羅山も「西南行日録」で梅花無尽蔵と同じように草津温泉と有馬温泉、湯島温泉(下呂温泉)を日本三名泉として讃え、特に湯島温泉を「遠くてあまり知られてはいないが、入湯するとその効能を得ることが出来る。」と記しています。江戸時代後期に製作された諸国温泉功能鑑(温泉番付)では「濃州下良の湯」として西之方前頭(2段目)として格付されており東之方大関の草津温泉や西之方の大関有馬温泉には及ばないものの、かなりの知名度がありました(横綱が無い為、大関が事実上の筆頭。当時は交通網や通信手段が未発達の為、人気度にはバラツキがあり製作者も全ての温泉地を廻ったと思われず、誤字なども多い。)。又、下呂温泉の歴史を見ると律令時代から飛騨官道(東山道支路)の「下留駅」が設置された場所でその後「湯之島」と呼ばれるようになり昭和初期に旧駅名から「下呂」に改称しています。江戸時代には飛騨街道の湯之島宿として多くの旅人が往来し飛騨屋久兵衛といった豪商を輩出し街道沿いには温泉街が形成されています。久兵衛は根室、厚岸、国後島などを開発した人物として知られていましたが、過酷な労働をアイヌ人に課した為、寛政元年(1789)、アイヌ人が一斉蜂起する事件(寛政蝦夷の乱・寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起)が勃発し双方に大きな被害を受けたという負の歴史もあります。下呂温泉の共同温泉は「白鷺乃湯」、「幸乃湯」、「噴泉池」の3つで安価で利用できます(噴泉池は無料で楽しむ事が出来ます。)。
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