有馬温泉(日本三名泉)三恩人:仁西上人

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有馬温泉・三恩人・仁西上人

仁西上人・概要: 伝承によると承徳年間(1097〜1098)に有馬温泉に大水害が起こり壊滅的な被害を受け以後荒廃しましたが、温泉寺建久2年(1191)に吉野山の麓にあった高原寺(奈良県吉野郡川上村大字高原)の住職である仁西上人により再興したと伝えられています。仁西上人が熊野大社に参拝した際、熊野権現の化身が出現し「荒れ果てた有馬温泉を再興するように」との御告げがあり、さらに「有馬温泉のへの道筋は蜘蛛により導かれるだろう」とも告げました。仁西上人は蜘蛛の糸に導かれ近くまで来ると、髭の伸びた白髪の老人が出現し、「今から投げる木の葉の下に源泉がある」と告げ姿を消した為、御告げに従いそこを掘り起こすと霊泉が湧き出しました。仁西上人は温泉場の整備と共に、行基菩薩縁の薬師堂(温泉寺)を再興し、支院として薬師如来の守護神である十二神将に因んで12坊を創建したそうです(現在温泉旅館として残る、北の坊、中の坊、奥の坊、御所坊、上大坊、池の坊、角の坊、萱の坊などはその名残とされます)。これらに似た伝承は「湯山阿弥陀堂縁起」などにも記載され、それによると仁西は吉野の山伏だったとされ、熊野権現で参籠の修行中に御告げがあり有馬温泉で阿弥陀堂と薬師堂を創建し、阿弥陀堂を住居とし、薬師堂には女体権現と熊野権現を勧請し、当地まで仁西を導いた、白髪の老人を護法神としたとされます。温泉寺高原寺の後継と思われる福源寺には高原寺中興の僧・仁西上人は熊野権現の御告げに従い薬師如来と高原の住民達と共に有馬温泉を再興し、再興がなると再び高原の地に戻ってきたと伝えられています。ただし、有馬温泉が壊滅したとされる承徳年間(1097〜1098)以降も大治3年(1128)には白河法皇が安元2年(1176)には後白河法皇が后である平滋子(健春門院)を連れて御幸され、長寛元年(1163)には心西入道が温泉寺に法華経を奉納したなど数多くの著名人が有馬温泉に湯治に訪れている記録も残っており、一定規模以上の温泉場は維持されていたと思われます。又、仁西が復興した際設けた12坊の坊主も、平家の落ち武者説や高原住民説、熊野修験僧説などあり単に伝承通りではなかったと思われます。何れにしても仁西上人は有馬温泉の開発に尽力したとされ、行基菩薩豊臣秀吉と共に有馬の三恩人に数えられています。

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