有馬温泉(日本三名泉)三恩人:行基菩薩

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有馬温泉・三恩人・行基菩薩

行基菩薩・概要: 行基菩薩(奈良時代の高僧)は天智天皇7年(668)、現在の大阪府堺市西区家原寺町付近行基菩薩で生まれたとされ天武天皇11年(682)に出家し飛鳥寺に入り、修行や布教活動と共に社会事業に尽力し治水事業や墾田開発、橋の建設、貧民の救済などを行いました。このような行為は僧尼令違反にあたる事から養老元年(717)に朝廷から弾圧されましたが、一方で行基の行いにより地域が活性化した事で世の中の安定化した事も事実で、さらに、朝廷以外の地方の豪族や庶民にも仏教を布教した事で彼らからの支持が篤く、朝廷に反抗的ではなかった事などから天平3年(731)に弾圧が緩められました。その後は朝廷が行基を利用するようになり、公共事業や奈良東大寺の大仏建立など民衆の力が大きく左右する大事業を任せ大きな成果を生むと日本で最初の「大僧正」(仏教界の最高位)が授けられています(行基が行ったとされる事業には、貯水池:昆陽池、久米田池、狭山池・橋:泉橋、山崎橋、行ヶ橋・港:河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊、室生泊などがあります)。又、朝廷から「菩薩」の諡号を授けられた事から「行基菩薩」や「文殊菩薩の化身」とも呼ばれています。

有馬温泉(日本三名泉)・行基菩薩: 神亀元年(724)、行基菩薩が伊丹の昆陽池(兵庫県伊丹市:行基が行った代表的温泉寺な公共工事の1つで、畔には行基が開いたとされる畿内49院の1つで貧民救済を目的とした昆陽施院の後継の昆陽寺が建立されています。)を築造していた際、1人のみすぼらしい姿をした病人が、病を治す為に万病に効くという霊泉が湧き出る有馬の湯に連れて行って欲しいと懇願されました。行基はその願いを叶える為、病人を背負いながら有馬温泉を目指し、その道中には、生魚を与えたり、膿を口で吸い出したりと病人の看病を行いながら当地まで辿り着くと、荒れ果てた有馬温泉と共に、先程の病人が薬師如来の姿に戻り、事の真相を告げました。薬師如来は話を終えると紫雲に乗り姿を消し、残された行基は御告げに従い有馬温泉を再興し、出現された薬師如来の姿を模した木像を自ら彫刻し、それを本尊として迎える為に薬師堂(温泉寺)を創建しました。湯屋の整備を終えると、温泉の効能や、入浴方法などを民衆にも伝えた事から広く知れわたり、この事から有馬温泉の発展の礎となり、平安時代中期に清少納言により編纂された枕草子には「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記載され日本三名泉(枕草子)に数えられるようになりました。又、建長6年(1254)に編纂され今昔物語集・宇治拾遺物語と共に日本三大説話集に数えられる「古今箸聞集」には「行基菩薩、もろもろの病人を助けんがために有馬温泉に向かい給ふ」と記載され行基の実績が長く語り継がれた事が窺えます。有馬温泉では行基菩薩を仁西上人豊臣秀吉と共に有馬三恩人として篤く感謝し、毎年正月二日には「有馬温泉入初式」が行われます。有馬温泉入初式は江戸時代中期から行われ、源泉を発見し温泉神社の祭神となっている大己貴命、小彦名命の神像と、有馬温泉を再興した行基菩薩と仁西上人の木像を輿に載せて神官(温泉神社)、僧侶(温泉寺)、旅館の主人、有馬芸妓の扮する湯女等が温泉街を練り歩き式場で入初式を行う神事で、1月1日は各湯宿は営業停止となり、行基菩薩と仁西上人の木像が1年始めの湯浴びを済ませてから、民衆が温泉に浸かる事出来るという風習が続けられています。尚、江戸時代に始まった神事である事から将軍徳川家に遠慮し恩人であるはずの豊臣秀吉は外されたとも云われています。有馬温泉入初式は神仏習合の神事が継承される民俗行事として貴重なことから神戸市地域無形民俗文化財に認定されています。

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